蟹と魚がいちゃついてるだけ
一応モブ(おばけ)注意
「アフロディーテ、いるか?」
勝手知ったる双魚宮だが、今日は家主のほうに用があるから、いつものように勝手に物色しないで声をかける。入浴中、と上機嫌な返事が返ってきた。確かに風呂場の方向だ。あいつ昼間から風呂に入ってるのか。
脱衣室に入って戸を開けると、甘ったるいが清潔な香りと湯気に包まれた。見れば長い髪をタオルでまとめた女神様。赤い物体を大量に浮かべた乳白色のバスタブの中で、湯をすくっては体に流している。
「随分と乙女チックだな……」
「薔薇達と一緒だと調子がよくなるのだよ。入るか?」
「入るわけないだろ。想像するだに気色悪い」
俺のような男前が、こんな薔薇まみれの女々しい風呂に入ってみろ。玉が取れる。ああ、そんな惨めな姿を晒せば故郷のマンマも泣くぜ。どんな奴か知らないが。
そもそもだな、それデモンローズだろう。俺は薔薇にあかるくないが、デモンローズとそれ以外は識別できる。薔薇の飼い主が少々抜けているので(仲間なら大丈夫と思って油断しているのだと思うが軍人としてどうなんだ)、自分でわかるようにしておかないと命の危機に晒されかねんのだ。それでなくてもこいつは、すぐ人に向かって薔薇を投げるが。とにかく、目の前にある浴槽は、入るのが薔薇聖闘士でなければ歴とした殺人風呂だった。
「じゃあ何の用なのだ」
殺人風呂をディスられて少し怒ったような顔をする魚。こいつは不機嫌な方が可愛いんだよな、とかどうでもいいことを考えつつ、本題を思い出す。
「お前が育てている薔薇で、食用にできるものはあるか?」
「食用か……デモンローズの庭に植えてあるのは普通の人にはダメだな。確か……あちらの庭のダマスクなら使える」
「そうか、あるんだな。最近入ってきた幼女の死面が薔薇で作ったジャムを食べたいと言い出すんで、分けてくれ」
そのとき、ほんの少しアフロディーテの顔が翳った。
「ほう。では上がるからそこをどけ」
何が引っ掛かったのかわからないが、そう言って体を起こすので、俺は脱衣室から出た。
待っていたら、猫っ毛をロイヤルブルーのリボンで縛り、キルトのゆるい寝巻きを着たアフロディーテが出てきた。
女のように扱われると怒るが自分に似合う格好は分かるらしい。全くややこしい性格をしている。
「その子は薔薇が好きなのか?」
ただ待つのも手持ち無沙汰なので、鋏とカゴを持って庭へ向かうアフロディーテについていく。ぱちん、ぱちんと手際良くジャムに使う薔薇を切りとっていく指先は、真昼の陽射しの中よく映えて、白魚のような……という形容がしっくり来るな、と思った。
「さあな。まあ、女のガキなら大抵花は好きなんじゃないのか」
こいつは意外と子供が嫌いでない。見た目が派手だし、どうも本人にたわいないところがあるので、昔はてっきり、苦手そうだと思っていた。
「ふうん……よし、このくらいでいいかな。ジャムは私が作るから、座って待っていろ」
「……」
この発言に、すぐに諾と答えられなかったのには理由がある。はっきり言って、アフロディーテはメシマズだ。見かけによらず庭仕事以外の家事全般が得意でない。この前食わされたハンバーグも最悪だった。ちゃんと火が通っていないしナツメグの量が異常だし玉ねぎを細かくしすぎて食感が悪いし、おまけに付け合わせの野菜は硬かった。あの易しい料理のどこを失敗するのか謎だが、たぶん雑なのだろう。
かわいそうな牛肉のことを思い出していると顔に出たのか、アフロディーテはまた怒り出した。
「デスマスク!信用していないだろう?ジャムくらい私でも作れる!」
「いや、でもお前……」
「とにかく座れ!」
どうしても自分で作りたいようなのでなんかもういいか、という気になって大人しく席に着いた。一回失敗すれば諦めるだろう。
机の上には朝刊が置いてあった。そういえば今朝読まなかった、と手に取る。
グラード財団のM&Aが一面だ。どこぞの医療機器メーカーを買収したらしい。
多忙なお嬢様は聖域の自治を双子座に任せて、自分は日本にいることが多い。女神と経営者の二足の草鞋なぞ実行できるのはあの娘くらいだろう。昔サガに遅れを取ったとはいえ、弱冠十三であれだから、我々の上司は大したものだ。
ページを捲ると、社会面に小さく載っていたのは四日前交通事故で死んだ母親と娘のニュース。娘の顔写真は、巨蟹宮に迷い込んだ死面のものだった。母親は花屋で、ちょうど今アフロディーテがしているような髪型である。店の名前に薔薇が入っている。親を恋しがって薔薇をねだったのか、と納得していると、はいどうぞ、と聞こえた。
顔をあげるとスコーンの皿とティーカップが置かれている。
二つの小瓶と、自分の分を取って戻ってきたアフロディーテが正面の椅子を引いて座った。
スコーン自体は近くの紅茶店で売っているものだし、何度か出されたから味はわかっている。クロテッドも同じだ。
いつも出てくる紅茶もまずくない。
さてこっちはどうだろう……と考えながら、薄くクロテッドを塗ったスコーンにジャムを乗せて口に運ぶ。
……普通に、美味かった。
「ほら、おいしいだろう?薔薇を使うとなぜかうまくできるんだよ!」
こいつのことだから焦がすか、できても水っぽいか硬いかだろうと思っていたが、そんなことはなく程良いとろみが付いている。手塩にかけて育てた薔薇だけあって香りも素晴らしい。流石は薔薇を愛し、そして愛される絢爛乙女……いや、乙女ではなかったな。いろんな意味で。
料理下手でも、サガに頼まれたものだけは完璧にこなすということは知っていたが、どうやら他にもまともな分野があったらしい。
今度ケーキでも焼かせてみるか、とぼんやり考えた。
私も会いたいというアフロディーテを連れて、八つ下の巨蟹宮に戻った。
「蟹さんおかえりなさい」
「ああ」
「ジャム持ってきてくれた?」
後ろにいるアフロディーテに視線を送ると、バスケットから瓶を取り出しながら進み出る。
「まあ、お姉さん、すごく美人なのね!」
やっぱりなと思いつつ、お姉さん、を盗み見たが、その表情は死面の発言と違って予想通りではなかった。
「ありがとう。でも私は男だよ、お嬢さん。名前はアフロディーテ」
こいつが美女とかそういう言葉で褒められて素直に礼を言うのは、珍しい。
俺が言うといきなり赤か白だし(黒を投げないのは、一応気を遣っているのだろうか?傷にならないように)、初対面の一般人が相手でもまずは訂正する。キレ気味で。感謝なんかめったにしない。
アフロディーテはジャムとクリームの瓶、それからスコーンの入った紙袋を幼女の側に置いた。
「嬉しいわ。お母さんがどこかへ行ってしまったから、作ってもらえなくて……」
「早く、戻って来るといいね。今ダージリンをいれよう」
死面が食事をとる場面を見たことはない。ただ、供えておけば、目を離している間になくなる。
アフロディーテを伴って一旦宮の外に出た。
四番目の宮となれば、それなりに高度がある。雨が降りそう、というわけではないが、風は少々冷たかった。
「お前、それ女装なのか」
服装自体はどちらとも取れるようなものだが、意図がある。女に見せようとして選んだ装いならば当てはまりそうな、いやどうだろう。こいつの場合、本来普通の格好が男装に見えてくることもあるわけで、自分の中で色々な言葉の定義が崩壊していってしまうのが恐ろしい。
「そんなつもりはない」
まあ、そう返すだろうとは思っていたが。
「ある女の真似をするなら女装だろう」
「……」
これは、図星の顔だ。
アフロディーテは俺ほどではないが役者だ。喋らなければボロは出さない。それもあって、冥界ではあのような名誉ある仕事を仰せつかった。
別に、ついてくる必要は無かったんだがな。
役目を果たすには俺一人で十分だった。ムウに飛ばされたときだって、テレポートがうまくないから、むしろ俺が助けてやらなければならなかった。
それでもこいつは一緒に来た。
……話を戻すが、アフロディーテは基本的にポーカーフェイスもできるおと、こ……男?そうだな、男だ。ああ。しかし、十三年同じ道を歩いた人間に対してそれをやることはない。したくないのかできないのかは分からないが、俺達といるときはえらく正直なのだ。
だから、それ以上聞かなくとも、アフロディーテが何を考えて十二宮を下って来たのかは理解できた。
「私が女装ではないと思っているから、女装ではない!」
果たして意味があるのか俺には微妙に感じるが、固い拘りである。
さっきの会話でも、女の真似をするなら女と言われて否定するなよと内心突っ込んだが、そこまでは譲れなかったらしい。
まあ、こいつの名前と顔を持って生まれたら、アピールに必死になるのも仕方のないことなのかもしれない。
「そうだな。風邪を引くからそろそろ戻るぜ、奥さん」
白が飛んで来た。
「アフロディーテさん」
巨蟹宮に戻ると、こちらに気付いた死面が不安げに話しかけてくる。一人にしている間に色々と考えることがあったのだろう。死んだ人間の考えなど大体決まっているから、内容の予想はつく。
それにしても、お願いを聞いてやった俺ではなくアフロディーテに話しかけるのだからやや不服だ。こいつを連れてきたのは俺だぞ。
「あのね、私も、大きくなったら、おかあ……あなたみたいな、きれいな人に、なれるかしら」
右前に突っ立っているアフロディーテが、おまえは死者だから永遠に成長することはない、とは言わないことを俺は知っている。
こいつは正しい正しくないより実利を気にする。本人が幸せな夢なら、覚めなくていい、と。表面上真面目に見えるが、本質は既存の枠組みを平気で破りまくるような奴だ。
昔からそういう考え方だった。いや、正確には、十三年以上前のことはわからないし、自分でそういう思想を形作ったのか、サガの影響なのかも知らないが。
まあ、有り体に言えば甘やかしているだけだ。
甘やかす以前にそういった規範に関心のない自分が言うことではないし、俺はそういう、聖闘士失格の魚座を割合好ましく思っているわけだが。
「君は私なんかより、ずっと綺麗だよ」
子供が好きなのは現実を知らないままの心が愛しいからだと聞いている。
聖闘士は、人間として驚異的な能力を持つが、それでも不可能なことはある。不可能なことの方が多い。神であったり、自然であったり、人間の心であったり。抗えないものはどうしても存在する。聖闘士は魔法使いではないのだ。
人は欲求と、そういった不可能性とに折り合いをつけながら生きていく。しかし子供は何も思い悩まずに生きていてほしい、いずれ考えなければいけないときがくるから、せめてそれまでの間は、と、それが魚座の持論、もとい願いである。
「アフロディーテ」
聖闘士はごく幼い頃から修行を始める。肉体的なことだけではない。思想的な面でもすぐに成人することが要求される立場にある。黄金ともなれば尚更。
だから、アフロディーテ本人にそういった時期はほとんどなかったはずだ。
それならお前のことは俺が気にかけてやろう、と思い始めたのはいつからだったのか、今はもう忘れてしまった。
「席を外せ」
俺が殺した人間の死に顔だけが、巨蟹宮に浮かぶわけではない。
特に子供に多くあることだが、自分が死んだことを認められないで彷徨う霊が時折引きつけられて来る。
そういう輩は、さっさと成仏させないと拙い。所謂、悪霊になる。
俺を恨んで残っている霊は俺個人にしか害を成さないが、無自覚タイプは厄介だ。
まだ生きているという感覚が、死を回避しようとする意識を生み出す。しかし生きている人間たちと生きているはずの自分との間にある違和感が、死を自覚させようと迫ってくる。その違和感を排除するために、生きている人間たちのほうを自分に近づけようとするのだ。
こうやって地上を脅かす怪異が生じるなら、仮にも平和を守る側の立場にある者としては、放置するわけにはいかないのだ。
アフロディーテにしても、実害が出ることを知ればきちんと向き合うだろう。
ダイダロスを殺したときのように。
だがまあ、俺でもできることをわざわざあいつにやらせる理由はない。
アフロディーテを寝室に押し込んで、死面に向き直る。
「お前、本当はわかっているのではないか」
「……」
先程の様子を見る限り、希望と諦めが半々といったところだろう。
不安と恐怖を抱えて留まる魂は、死後時間が経つにつれ混濁していく。真の生の実感がないまま迷い、戸惑い、そのうち死を生だと思い込み、周りの生を塗りつぶすようになる。
そうなる前に送ってやらなければならない。
「死んだのだ、お前は。もう母親に会うこともない。どうすることもできん」
「そ、んな……」
薄々分かっていたことを断言されて今にも泣き出しそうな幼い魂が、わからない、信じられない、自分は一体どうすればいいのか、と訴えてくる。
そんなものは、決まっている。
「それが事実だ。受け入れろ」
「…………」
「現世でやることは残っていないはずだ。そうだろう」
「…………」
「死者のお前が、生者の世界に干渉してはいけない」
命は軽いが、巡るものだ。
星に導かれて、生まれるべき時代に生まれ、死ぬべき時に死ぬ。聖闘士だけではない。
「先に進め。それがお前の義務だ」
もし母親に巡り会うべき運命なら、いずれ再会できるだろう。そうでないなら、もはや永遠に行きあうことはない。
しかしそれは、どちらにせよ、後ろを向いていては分からないものなのだ。
「……うん」
幼い死面は、なんとか聞き分けたようだった。
「お母さんは、薔薇が好きだったの」
そっと語る声は寂寥で潤んでいたが、病的なものではなかった。
「あの人、少しお母さんに似ていたわ」
似ていたのではなく、似せたのだ。
あれはそういうことをやる人間なのだから。
「また本物の母親を見つけるがいいよ。別の人間になっても、魂は変わらんからな」
「……そうする」
「ほら、もう行け」
「うん。……ありがとう、黄金の蟹さん」
そして、子供の魂は黄泉比良坂へと飛んだ。
寝室の扉を開けると布団が膨れていた。
寝付くの早すぎだろ、と呆れながら近くに寄ると小さく寝息が聞こえる。
茨姫のまとう薫香は、この上なく甘美で柔らかだった。